© 22世紀に残すもの

​お問い合わせ

辻 信一氏と渡邊智恵子の「ブータンツアー報告会

May 22, 2017

 

 

【対談】辻:辻信一 わ:渡邊智恵子 愛:渡邊愛

 

 

 

わ:辻先生から「ブータンのオーガニックコットンを、商品化して経済を成立させていく手伝いをしてほしい」と、3月のブータンツアーに誘って頂き、参加してきました。

でもそこでは、オーガニックコットンよりもっとすごいことを体験しました。それは

「この国ってなんて優しいんだろう、と思った」

ということです。

今日はツアーに参加した娘の渡邊愛の他、沼畑さんや中村さんも来られているので、5人で話をしていこうと思います。

 

ブータンでは、日本人が忘れかけていた優しさを思い出させてもらいました。人には多様性があるということ、障害を持った人もいますが、その人達とも一緒に生活をしましたが、何の別け隔てもしないのがブータンの人々でした。

日本人が行くことはめったにないので、村をあげてのお祭り騒ぎになりますが、それにも障害を持った人たちは普通に混じっていました。綿繰りや糸にしていく作業を一緒にしましたが、仲間となった我々のために一生懸命やってくれました。障害を持った人のほうがかえって、そういう作業を飽きずにやってくれるのです。彼らから学ぶことも大きいと思いました。

辻:

今回は、ぼくにとって20回目の記念すべきブータンへの旅を、ツアーの皆さんにご一緒してもらいました。ブータンのチモン村に入るには、タイに入り→一泊→飛行機→車に3時間揺られ、国境を越えた向う側の町、サムドゥルップ・ジョンカーに一泊→そこから6時間かけてやっとチモン村に到着します。これでも村までの道路が通じて昔よりずっと早くなった。13年前初めてチモン村に行ったときは西部ブータンにある首都ティンプーから6日かかりました。

わ:

ヘアピンカーブのすごい道がずっと続くんです。

辻:

今回のツアーは、「自分が行きたい」のはもちろんとして、それに加えて「智恵子さんにぜひチモン村に行ってほしい」というのがあった。もう一つ、僕のもとで、「障害」をテーマにしている聴覚障害者の大学院生にも来てもらえることになりました。

チモン村には結構障害者がいます。道路がつくということは人の出入りが始まるということで、村から都会へ出ていく人も多くなります。そうすると残る人の中の障害者の割合は更に上がることになります。

今回のツアーは、智恵子さん親子や、大学院生をはじめ、いろいろな人が混ざった異色な顔ぶれでの、ちょっと不思議なツアーとなりました。

わ:

大学教授もフェアトレードショップのオーナーなど、参加者も多様でした。

そしてそこには、まるで「60年前の日本」という風景が広がっていました。

それにしてもなぜ20回もブータンに行っているんでしょうか。

辻:

ナマケモノ倶楽部ではだいたい年に2回のペースでブータン・ツアーをやっています。

ブータンへのツアーと言うと普通は首都ティンプー、パロ、プナカなどのある西部がほとんど。すでにかなり観光化されたコースがあり、アジアの中では高額のツアーに属します。でも僕は正直、そういうのは飽きてしまって、機会さえあれば観光とほとんど縁のない奥地を目指します。

ブータン東南部のチモンへはインドのアッサム州からの「裏道」を通っていきます。チモンに行き始めたのは、ぼくのガイドで、その村出身のペマ・ギャルポとの出会いがあったからです。ペマとは十数年前の旅で意気投合、「あなたとは前世の兄弟だ」と言われて、気がつくとその気になっていました。

初めてブータンに大学のゼミの学生たちを連れていったとき、中にちょっとひねくれた学生がいて、「いろいろ立派なこと言うけど、ペマさんはどうせ金儲けでオペレーターをやっているんでしょ」というようなことを言ったら、ペマはとても怒った。そしてこう言った。

「私がなぜティンプーに出てきてこんな仕事をしているか、教えてあげよう。それは故郷の村のお寺の屋根を葺き替えるためだ!」

寺の屋根とは変な答えだと思うでしょうが、寺を維持するということは村そのものを維持することです。寺は村人たちのアイデンティティの基盤であり、それを介してご先祖ともつながっているスピリチュアル・センター。神仏混交ですから、神様もそこに宿っている聖地なんです。聖なる祭事の衣装や道具も全部そこに収納されてある。その寺をどう持続させるか、というのは、実は村そのもの、また村人一人ひとりのサステナビリティ(持続可能性)の問題なんですね。ペマの意識では、村から離れて住むという役割を果たしている村人なんですね。

数回ブータンに行くうち、ペマから散々村のことを聞かされる。「是非一度村に来てくれ」と請われるまま、ついに行くことになりました。当時は片道を車で4日、そのあと徒歩2日という行程。村に二日いるだけで往復で2週間。ああ、今思えば、ぼくはなんていう暇人だったんだろう。2年前にやっと車道と電気が村まで到達、というような“隠れ里”です。

村に到着する前に、まず四方を囲む山の上から村を見下ろす格好になります。それは何度見ても息をのむような光景です。なんでこんなところに村があるのか、と思うような場所ですが、伝説によれば、魔物たちが村を襲おうとしたとき、神々が村を救うために湖のように見せて、魔物たちを追い返した。実際、霧がかかると本当に湖のように見える。そして村がその底に沈んで見えなくなる、そんな場所です。 

 

  

中村:

私は愛知岡崎にすんでいます。地元でブータンの人の講演会があったのですが、ティンプー出身の方で、チモン村というと自分も行ったことはない、そんな遠いところへ行ったのかと驚かれていました。そのくらいの遠い村です。

お酒をたくさん飲み、飲まされて大変でした(笑)。

 

わ:

食事は大事なんです。この村の人にとって、ゲストは幸せを運んでくる人、マレビトであり神様です。だから、お客様が訪ねて行くと家にあるもの全部でもってもてなしてくれる、そういう習慣があります。

私たちが着くと村の外まで総出で迎えてくれる。そして、どんなに貧しいおうちでもお酒はあるので、お酒を出してくれます。みかん、卵、さとうきびでもてなしてくれるのですが、かれらにとっては貴重な食べ物、それを提供してくれます。

ブータンの卵は何個食べてもいいくらい美味しい。日本では殆どは人工飼料で抗生物質も使われる鶏の卵ですが、ブータンはそこらを走り回っているhappy chickenの卵だから美味しい。

辻:

僕は基本豚は食べないけど、チモン村へ行ったときだけ食べます。ぼくらのためにわざわざ子豚を一頭を丸ごとさばいて歓迎してくれるんです。

中村:

僕の泊まった家では水浴びをさせてくれたのですが、実はそこ(水浴び場)は、少し前にさばいた豚をつるしていた場所だった、ということがありました(笑)。

沼畑:

ほんとに卵は日本のものとは違って、濃厚です。

わ:

どぶろくをみんなが飲むんですが、発酵させたものを濾して飲むという原始的なお酒です。どこにいっても朝からこれが出てきます。

愛:

私はこの前まで京都に住んでいました。京都の食べ物はみんな凝っているのですが、ブータンには凝ったものはありません。「家にはこれしかないんですが、どうぞ」といって、出してくれる。その気持ちが凄く伝わってきます。卵とみかんの他にバナナもあって、「ありがとうございます。いただきます」という気持ちになれます。

わ:

私たちが行くと、村では村長のところで豚を一頭まるごとさばいてふるまってくれます。そのおすそわけが村人にも回るから村の人もハッピーです。

日本でも食べ物がなかった時に「わけあう」ということがありました。食べ物をわけあい、ピュアな幸せを運んでくれる人たちをもてなすという気持ちが隅々まで行き渡っています。

 

辻:

熊本の小さな農村、須恵村について書かれた『忘れられた人類学者(ジャパノロジスト) ~エンブリー夫妻が見た〈日本の村〉』田中一彦 (著)という本があります。お薦めの一冊です。現在そこはあさぎり町の一部になっていますが、そのあさぎり町では、オーガニック・コットンを栽培している。チモン村でもオーガニックコットンをやっていることを知り、数年前、来日中のペマを迎えてのイベントを催してくれて、須恵小学校の子どもたちや先生たちが大歓迎してくれました。

その須恵村に1935年、アメリカの社会人類学者ジョン・エンブリー一家がやってきて、村の社会組織、農耕、性、結婚、家族関係、祭りなどを詳しく記録し、この辺境の地における近代化や軍国主義化の様子を観察しました。彼と妻のエラが後に一冊ずつ本を残している。忘れられかけたそれらの本に、数十年後に再び注目し、自らの長期の現地調査を踏まえて書かれたのが、田中さんの『忘れられた人類学者』。ぜひ読んでみてほしいのですが、ここに書かれている須恵村があまりにブータンとそっくりなのには驚きます。女性たちも男性同様に酒飲みで、性的にも奔放です。

エンブリー一家は1年須恵村に滞在して調査していったのですが、なぜ須恵村を選んだかというと、そこには江戸時代から続く日本の農村の姿がまだ残っていたからでしょう。1935年の須恵村と同じような風景がいまだブータンのチモン村にも残っているとぼくには思えるんです。

わ:

女性は強いですよね。そして夜這いがチモンに残っていて、それは須恵村と同じです。

辻:

宮崎の内陸、椎葉村は日本のチモンと言えるような村ですが、そこに90歳を越えるくにばあというおばあさんがいて、彼女が今も続ける焼畑をNHKがとり上げて番組にもなった。それがいやはや元気な人なんです。彼女の家族が経営する民宿に泊まったんだけど、くにばあは朝早くから夜結構遅くまで、喋ること、喋ること。食事の後に夜這いについて訊いたら、すぐ隣りの部屋を指して、「ここよ」って。そこががまさに両親が娘を寝かせる、夜這いの部屋だったって。そこに若者が忍んでくるわけだけど、でもくにばあによれば、娘は相手を選べるので、嫌な人だと違う部屋に逃れればよかったんだって。先に亡くなった夫のことを、ああいい人だった、大好きだったって、今でも惚れ込んでいる。それを見てぼくは感動しました。

 

チモン村ではペマを中心に、ぼくたち日本のナマケモノ倶楽部も協力して、オーガニックコットンを35年ぶりに復活させましたが、これも昔ながらの焼き畑なんです。

焼き畑は、近代農業によって遅れたものとされ、駆逐された農法です。環境への負荷が大きいと言うけど、でも、何千年と続いてきたのはその焼き畑です。現代的な化学農業なんて50年でもう限界が見えているのに。チモンでは焼き畑でコットンをオーガニック栽培、服にするまで、すべて自分たちの手で作っています。今後どのように進んでいくにしても、まずはこの原点を確認することが必要だったんだと思う。

わ:

ブータンで男性は「ゴ」を着ます。妻は夫にゴを贈り、夫は一生その贈られたゴを着ています。これが衣類の原点ではないかな、と思います。

辻:

チモン小学校の校長先生は隣り村(といっても歩いて5、6時間)出身の若い素敵な男性ですが、この人に最初に会った時にも奥さまが作ったゴを着ていた。たしか、奥さんのお父さんだか、おじいさんだかが庭で綿を作り続けていた。嫁入りする娘がその綿で、夫にゴを織るというブータンから消えかけた伝統が、ここにはわずかに残っていたんですね。

ペマたちもそこから種子を分けてもらったりして、栽培にこぎ着けたのが、5年前です。今では綿栽培を村にしっかり定着させました。染織は、藍染の青、ターメリックの黄、茜の赤の3色を基に、そのいろんなバリエーションでやっています。

辻:

雲南~ベトナム~タイ北部~ミヤンマーから中国東部、そして日本の西半分に至る地帯を照葉樹林文化圏と呼ぶことがあります。ブータンの中でも西部はチベット文化の影響を強く受けていて、少し違うのですが、東部は先住民族の農耕文化がしっかり残っていて、照葉樹林文化圏という言葉に現実味を感じますね。ブータンは西部と東部では言葉をはじめ、実はとても違うんです。普通の西部へのツアーでも親近感を感じるという人は多いんだけど、ぼくは東部にさらに深い親近感、懐かしさのようなものを感じます。友人のヘレナ・ノーバーグ=ホッジがラダックのことを書いた本のタイトルが『懐かしい未来』ですが、まさにブータン東部がそんな感じです。

 

辻:

この写真の白いシャツの男の子はとても賢くて、ぼくたちと生徒たちとの交流会でも面白い質問を連発する子です。サッカーもなかなか上手です。今回の旅でわかったのは、この子が、ぼくのよく知っているろうあ者の女性の実の子どもだということ。ぼくは今回同行した聴覚障害のある大学院生に、そのろうあ者の女性を会わせたいと思っていた。ちなみに、この女性は“ヨンミン”と呼ばれているんだけど、実は女性を呼ぶヨンミンも男性を呼ぶヨンマも名前ではなく、“バカ”みたいな意味なんですね。ろうあ者だけでなく、知的障害者もそう呼ばれているので、村には何人もヨンミンやヨンマがいる。たしかに蔑称なんだけど、ずっと見ていると、単なる蔑称ではない。同時に、ある種の親しみ、愛着を込めて使われる愛称でもあるようなんです。

今回の学校での交流会では、例のヨンミンが後ろの席から、自分の息子の活躍を嬉しそうに見ているのを見て、ぼくもうれしかった。小学校の高学年から、子どもたちは近くの子でも寮生活が多いんだけど、子どもっていうものはそもそも村全体で育てる、というのを強く感じました。優秀なヨンミンの息子を村中が誇らしげに見ているらしい。来年からは峠を越えた向うの村の上級学校に行くんだけど、それも親だけじゃなくて、村が彼を送り出す、という感じらしいんです。ぼくも応援したいな、と思っています。

 

チモンでも人口流出は加速しています。現在のチモンに老人と女子供、そして障害者などの割合が増えているのも、そのせいでしょう。

チモンを含む東部ブータンはごく最近まで近親婚の多い地域です。特に重要なのが交差イトコ婚と呼ばれるイトコ同士の結婚。そのことと、障害者が多いように見えることをつなげて考えられるかどうか、ぼくにはわかりません。それに光を当てるにはかなり大掛かりな調査をする必要があるでしょう。

村のペマの実家にも障害を持った人はよく出入りしていますが、みんなよく働き、器用な人が多く、言われなければわからない。こういう人たちと話をする場面が生まれると、だれかそばにいる人が、必ず会話に入り込んできて、会話をサポートする。一種の通訳ともいえる。ブータン人は酒飲みです。チモンでも夜になるとみんな酒を飲む。すると健常者と障害者の区別がさらに曖昧になる。宴の席で、健常者と障害者がペアになって漫才のような掛け合いをやる場面を何度も見ていますが、ツッコミ役が障害者で、ボケが健常者というのもよくあり、これは痛快。ぼくは大好きです。区別がないわけではない。細かく言えば、差別的なことだってあるでしょう。でも、ぼくらが健常者と障害者の間に置いている区別が、ここではそのまま通用しないのは確かです。

ペマをはじめ、何人にも障害者についての彼らの感じ方を訊いてきたんだけど、多くの人が「特別な人」という言い方をする。健常者にある何かが欠けているから障害者なんだけど、健常者の方に欠けていることも多い。どうも障害者はそれを思い出させてくれる「特別な人」のようです。神仏との関係も、普通の人とはちがう近さをもっていると考えられているらしい。一種の「神聖さ」をもつ人びとだ、と。

わ:

職業訓練所も見学しました。9歳~44歳までいる訓練所でしたが、ここではみんな一緒くたで仲良し、勉強もしています。日本ではありえない光景です。

辻:

ちなみにご心配の方に言っておきますが、夜這いはブータンでも殆どなくなってきて、いとこ婚も減ってきているようです。

 

 

(写真についていろいろ説明)

辻:

これは「4匹の仲良しの動物たち」というブータンの多くの寺や家庭や学校でよく見かける絵です。

まず一番上にいるのがトリで、次がウサギ、三番目がサル、一番下がゾウ。時間軸で言えば、鳥が種を運んできて落とし、兎がまわりの雑草を食べて、猿がフンを落として土に肥しを与え、最後に象が鼻で水をやって植物を育てた。今ではその植物は大きな木となってたわわに実をつけた。それを4つの動物たちが協力して収穫し、仲良く分かち合っている、という絵です。小さい鳥から大きな象まで、それぞれの特徴を生かして、協力する。そして種を越えて皆が木を育てて分かち合う。差別のない、フェアで、平和な社会のメッセージなんでしょうね。

別に政府が上から押しつけたものではなく、昔から、仏教説話みたいな感じで、広まって定着したものらしいんです。とにかく、よく見ますよ。

 

 

 

 

わ:

日本の昔が今のブータンにある、でも今のブータンの問題点は何でしょうか?

辻:

ブータンは今岐路に立っています。今回の旅は東部ブータンでしたが、その奥地の村にも、電気と車道が開通し、グローバル化の波はひたひたと押し寄せています。ブータンへ旅行する人の大半は、一番開発の進んだ西部ブータンを訪れるわけですが、そこではコンピュータ、車、スマホが普及し、多くの職場で英語も普通に話されています。金融取引をスマホとPCでやっている人たちもいます。新しい富裕層やエリート層が形成され、その子どもたちの中には英語しかできないのも出てきている。その一方で、同じ国に、東部ブータンのチモン村のようなところもあるわけです。この差はすさまじいもので、ぼくのように海外から訪れるものには、大問題と見える。でも、その一方で、例えば首都ティンプーの都会暮らしをしているエリートの大多数が、いまだに自分の出身地や、大家族、そしてコミュニティの一員であるというアイデンティティをしっかり保持しているわけです。さっき、ペマとチモン村の強い結びつきの話をしましたが、ペマほど強烈でないにしても、まだまだ故郷とのつながりはぼくたちにはなかなか想像できないくらいに強固なものです。

ブータンと言う国を世界的に有名にしたのは、第四代国王が唱えたGNH(国民総幸福=Gross National Happinessの頭文字)でした。このGNHは、世界中の国が信奉してきたGNP(国民総生産)という経済指標をもじったものでした。これはその国王(現国王の父)による、経済至上主義で、かえって戦争や環境破壊といった不幸の種をまき続ける世界への痛烈な皮肉だったんだと思います。その同じ第四代国王は、GNH思想の一環だったと思うのですが、絶対王政から民主化に向かうべきだと決断して、その先頭に立って、最初は嫌がっていた政府や国民を説得していき、2008年についに民主主義への移行を成し遂げる。そのまま自分は引退し、初めての憲法が発布され、国王は象徴的で非政治的存在となった。第五国王は彼の息子ですが、やはりすごい人気です。

ブータン人の多くがとても楽天的で、例えば、グローバル化や経済優先主義は、仏教の教えやGNHに代表される考え方、また賢い国王たちによって、歯止めをかけられる、ちゃんとバランスを保つのだ、と考える人が多い。

ぼくも外から考える時には、悲観的になりやすいんだけど、ブータンの中から考えると、楽観的になる。ある意味分裂しているんだけど、それがまた面白いところじゃないか、と思えるんです。

 

わ:

赤ちゃんのおむつやナプキンも、すでに紙の使い捨てになっていることに衝撃を受けました。ひたひたと近代化が進んでいます。

ブータンの収入は実は今、観光と電力(インドへの売電)なのです。

 

辻:

ブータンの良さも、グローバル化という強風を前にして“風前の灯”だと言う人たちはたくさんいて、ぼくもある意味ではそう思う。でも、一方で、世界全体が近代化し、グローバリゼーションの道を突き進んできて、しかし今その破綻が明白になりつつあるのも事実なんです。「グローバル化の終わりはすでに始まっている」、という人たちが世界に増えてきていますが、ぼくもその一人です。

グローバル化に対してナショナルを掲げてトランプ氏やイギリスのEU離脱派が勝利したけど、ぼくはそれは本物の脱グローバリゼーションではないと思う。ぼくの脱グローバルはローカリゼーションなんです。

経済はもともとはローカルであり、ローカルこそが経済の本質なんだと。今、ぼくたちはそれぞれの地域で、この経済の本質に戻らないといけないのではないか。でもそれは過去に後戻りすることではない。GNHだって、単なるノスタルジアじゃないんです。

最近の文章で、ぼくの“先生”でもあるサティシュ・クマールは、おそらくはイギリスを念頭に、「6割ローカル」の経済を提唱しています。60%ローカルで、25%国産、15%貿易。このくらいのバランスがいいんじゃないかって。

その意味で、まだ大きく外部に依存しすぎていないチモン村での実験が他の村や町にインパクトを与える。そしてブータンが、世界中にインパクトを与えうる。そういう可能性はあるし、それにぼくも連なっていけたらうれしいな、と思っています。

ブータンが岐路に立っていると言えるなら、日本だって今まさに岐路に立っています。状況は、実はブータンよりずっと深刻だともいえるくらいです。日本の小さな村の事例に学びながら、どういう社会を人生を選択するか、考えるときです。

 

つい先日、岐阜の石徹白(いとしろ)に行ってました。岐阜の郡上八幡から山に1時間ほど入ったところです。人口270人位ですが、地域が主体になった小水力発電の先進地として注目を集めた。協同組合を作って自然エネルギーによる地域の自立を目指した結果、今ではエネルギー自給率が200%を超えた。他にも、ローカル経済のいろいろな試みが行われている。特に注目すべきは、「石徹白洋品店」という衣類のブランドで、村の中に、とてもおしゃれなブティックがあって、そのために多くのファンがわざわざ遠くからやってくるんです。石徹白は白山信仰の古代からの拠点のような場所らしく、今も、その精神文化が息づいている。ぼくが長年ブータンで見てきたことを、ここでまた見ているような気がしているんです。

 

 

 

Share on Facebook
Share on Twitter
Please reload

特集記事

I'm busy working on my blog posts. Watch this space!

Please reload

最新記事
Please reload

アーカイブ